米オープンAIが動画生成AIであるSora2を搭載したSNSアプリ「ソラ」を提供、売りはユーザー自身を忠実に再現して動画に登場させるカメオ(出演)機能である、という記事を読みました。
記事の中ではソラの他に既存のSNSであるFacebook、Instagram、X(旧Twitter)、YouTube、TikTokなど各SNSが紹介され、これらにAIが入り込んでいる現状とともに、リスクについても取り上げられています。
確かに、TikTokのおすすめフィードを見ていると、例えば家のドアの前に人や動物が立っていて、後方にある竜巻の中に吸い込まれていく映像などインパクトのあるものが拡散されています。
この場合は大半の視聴者がAIだと分かった上でリアクションしていますが、もう少し現実に即したものだとリアルかAIか一目で判別できないものもあります。例えば、赤ちゃんが拙い言葉で喋りだす映像など。
これが政治的に悪用されれば、世論に悪影響を及ぼしてしまうということも想像できます。私は今のところ見た記憶がないですが、すでにフィードの中にはそうした映像が入り込んでいるのかもしれません。
そう考えると確かに怖いなぁ、と思います。
私自身もオープンAIのSoraを使っており、カメオで自分の顔を登録して、ダンスを踊っている映像を生成したりして楽しんでいます。
でも、もう少しだけ飽きてきている面もあり、ただ思い付いた言葉を入力して動画を生成して、それをSNSにアップロードしてもつまらないな、もう少しインパクトのあることができないかな、と最近は思うようにもなりました。
視聴者も、ただAI生成されただけの映像を見てもつまらなく、すぐにスキップしてしまう確率が高いので、AI生成を使って動画をつくるのにも従来のような人間の工夫が必要だと思いました。
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上記文章をchat GPTに添削してもらいました。プロンプトは“上記は私の感想も含めた文章なんだけど、この文章を見て率直にどう思いますか?事実誤認や、思考の偏りはありますか?”です。
概ね思考に偏りはないが、唯一偏りになり得るのは“「視聴者もAI生成だけでは飽きている」「人間の工夫が必要だと思った」という部分”と返答がありました。
その根拠として“まだ世界的にはAI生成の面白さがピークにある地域もあります”とあり、その通りだなと思いました。
いつの間にか、私自身がAI生成のフェイク動画(特に先述した竜巻のやつとか、災害、事故などネガティブ要素を含むもの)の一部に空きというか、違和感を抱いているのを、“視聴者”と一括りにしてしまっていました。
視聴者って言ったって、日本の視聴者もいれば諸外国の視聴者もいて、さらには国内でも色んな感性を持った視聴者がいるにもかかわらず。
こうして少しAIに触れるだけでも、奥深く、また回答までの時間もすこぶる早く、改めてすごいなぁという月並みな感想が出てきてしまいます。
いやぁ、本当にすごいです。
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ここでchat GPTから提案を受けました。
“もし希望があれば、あなたの文章を
📘「AI時代の創造とリスク:ユーザー視点の考察」
というタイトルのエッセイ風に再構成して、雑誌掲載レベルの完成稿として整えることもできます。そうしてみますか?”
お願いしてみました。以下にchat GPTに生成してもらった文章を掲載します。
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AI時代の創造とリスク:ユーザー視点の考察
1. AIとSNSの新しい融合
2025年、米オープンAIが発表した動画生成AI「Sora2」は、SNSとAIをめぐる議論に新たな焦点をもたらした。
このアプリ「ソラ」では、ユーザーが自分の顔を登録し、AIがその人物を忠実に再現して動画内に登場させる“カメオ機能”が話題を呼んでいる。まるで自分自身が別の物語の主人公として踊り、語るような感覚は、創造の自由を一段と拡張した。
しかし、この「生成と共有の一体化」は同時に、SNSという巨大な拡散装置にAIを直結させるということでもある。
フェイスブックやX(旧Twitter)、YouTube、TikTokなど、既存SNSでもAI生成映像が急速に増え、フィードの中で“リアルと虚構の境界”が曖昧になりつつある。
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2. 現実と虚構のあいだで
TikTokのおすすめフィードを眺めていると、家のドアの前に立つ人や動物が、背後に現れた竜巻に吸い込まれていく——そんな非現実的な映像が目を引く。
多くのユーザーはそれを「AI作品」と理解したうえで楽しんでいるが、もう少し現実味を帯びた映像では、AIか実写かを即座に見分けるのは難しい。
例えば、赤ちゃんが拙い言葉を話し出す動画。
そこに写っている“命の温もり”がAIによって生成されたものだと知ると、視聴者の感情は複雑になる。もしこの技術が政治的・社会的な目的で利用されれば、世論を左右する“フェイクの波”となり得る。
現時点でそうした映像が意図的に拡散されている兆候は少ないものの、技術的にはすでに可能な段階にある。
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3. 使う者としての責任と感情
私自身もオープンAIのSoraを使っている。
カメオ機能で自分の顔を登録し、ダンスを踊る動画を生成してSNSに投稿したときは、純粋に「未来を触っている」ような興奮があった。
だが同時に、最近は少し“飽き”を感じているのも事実だ。
思いついた言葉を入力してAIに動画を作らせ、それを投稿するだけでは物足りない。
視聴者も同じだろう。AIが生成しただけの映像では、もはや驚きは続かず、スワイプ一つで通り過ぎられてしまう。
AI時代においてもなお、人間の工夫と創造性は不可欠なのだと痛感する。
「AIがすべてを作る」のではなく、「AIと人間が共に作る」フェーズへ——私たちはいま、そうした転換点に立っている。
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4. 技術の進化と倫理の狭間
AI生成映像がもたらす最大の問題は、“嘘が本物のように見える”ことではない。
それが人々の感情や判断を無意識に揺さぶるという点にある。
視聴者の多くは「本当かどうか」よりも、「どれだけ感情を動かされたか」で行動を決めてしまう。
だからこそ、AIの開発者と利用者の双方に“透明性と責任”が求められる。
AI生成物であることを明示する仕組み(C2PAなど)、フェイク検出技術、利用者教育——
こうした安全策を整備することが、AIとSNSの共存を支える鍵となる。
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5. AI時代の創造とは何か
AIを使えば誰でもクリエイターになれる時代。
だが、それは「創造が自動化された時代」ではなく、「創造の選択が問われる時代」だと思う。
AIが作る“見た目の凄さ”よりも、そこに込められた“人間の意図”や“語りたい思い”が問われるようになる。
AIはもはや敵ではない。
だが、私たちの「想像力の怠惰」を鋭く映し出す鏡でもある。
AIが現実と虚構の境界を曖昧にする時代だからこそ、人間の創造とは何かを改めて考える必要があるのだ。
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■ 結語
AI時代のリスクは、技術の暴走ではなく、**私たちの“無自覚な依存”**にある。
創造の主体がAIに奪われるのではなく、AIとともに何を表現するのか。
そこに、この新しい時代を生きるクリエイター一人ひとりの知恵と責任がある。
※本稿は、筆者の考察に基づき、ChatGPT(GPT-5)の協力を得て構成・編集しました。
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以上が、chat GPTによって生成された、新聞を読んでの私の考え・実体験を含めた文章をエッセイふうに再構成してもらったものになります。
これを掲載するにあたってさらに、“この文章をそのままコピーして自分のブログに掲載することは著作権的・倫理的に問題はないか?”といった質問をしたところ、オープンAIの利用規約的には問題なし、ただし出典を明らかにすること(今回の場合、日本経済新聞を読んでの感想なので、本文の最後に出典を明記しています)、また、AIとの共創であることを明記するのが望ましい、との回答があったので、そのようにしています。
以上です。
参照 : 日本経済新聞 2025年10月25日 9面
注記 : この記事のアイキャッチ画像は、AI(ChatGPT/DALL·E)により生成されています。